先日のブログ記事(開平市街地と華僑の豪華な洋館「立園」の華麗なギャップ)を公開した直後でしょうか、ブログ読者の方から開平に関する最新情報を教えていただきました。アリガトウございます。読者様は2020年に入ってから観光されたそうで、まさに鮮度抜群の情報!では、その内容をまとめると・・・

  • 開平市街地にある義祠バスターミナル(汽車站)から自力村、立園、錦江里、馬降龍の4ヶ所をタクシーで周遊。大体4時間ほどで費用は400元。
  • 錦江里以外の各スポットは入口が完全ゲート化され、チケットなしでは入場できず。この4ヶ所に入場できるセット券は120元ほどでアリペイなどでの支払いが可能。
  • 今年1月初めに来訪。まだコロナウイルス騒動が大きくなる前の時期ですが、観光客はかなり少なかったとのこと。

有益な情報をお寄せくださり、アリガトウございます!
 

「自力村」訪問記、今回は望楼(碉楼・盧)に関する詳しい解説も入れます

立園を観光し終わり消化不良気味の私、あの田園風景の中に点在する奇抜なビル(?)群を早く見に行きたい!自力村へ早く行こうと急かす私に対し、妻は立園にまつわる謝氏一族のストーリーにいたく感動した様子で、まだまだ離れたくないと言う。やはり旅は気軽な一人旅がいちばんイイよ!
 
ちなみに自力村の簡単なガイダンス。現在、開平で見られる華僑マネーによりつくられた奇妙キテレツな建築群(望楼)は総数1800棟以上、そのうちの約3割は自力村がある塘口鎮(鎮=中国の行政単位で”町”とお考え下さい)に所在していると言われている。自力村には9つの碉楼(塔)と6つの盧(多層住居)の計15の望楼が現存し、それらが田園風景に屹立する様は、私の事前の想像では蜃気楼に浮かぶ摩天楼(べタな例えだなぁ)!
 

自力村のネーミングにピンと来る方、そんなあなたは中国近現代史に詳しい方?

自力村の自力ってなにか突拍子もないネーミングですよね。個人的な告白をすると、実は私、中国近現代史が好きでして、この自力村のネーミングから「自力更生」を想像するのは当然の結果。時代は1950年代から70年代、中国では大躍進から文革に至る政策を毛沢東思想に基づき実施。中国全土で人民公社がつくられ、自分のものは自分で作れ!自分のことは自分でしろ!(自力更生)と声高にスローガンが叫ばれた時代でした(ちなみに、習近平政権下でも自力更生のフレーズはよく使われる)。この自力村は、もともと「美桃村」と呼ばれていたそうです。なんてステキなネーミングだったのでしょう。それが文革期を前後して、いつのまに「自力村」という名前に変わった・・・。
 
ちなみに上に掲げた写真に書かれた文字は判別できますか?これ一番上に「共産党万歳」と書かれています。もともと華僑によりつくられた”ブルジョア”村は毛沢東主義的な視点からは”敵”そのもの、打倒すべき存在だったのでしょう。そんな共産党=毛沢東に迎合するため、村の名前を変え各戸の玄関先にはスローガンをデカデカと書く。それでもこの村に(海外から戻り)住んでいた大多数の人々は、村からの脱出を余儀なくされたのでしょうか・・・ウゥ~涙が!
 

自力村の入口に到着、多くの動物たちに出迎えられる

立園で長い時間を過ごした私たち、さすがにこれ以上のタイムロスを避けるため、自力村まではバイクタクシーで向かいました。そして降ろされた場所は・・・まさに田舎に来たな~という光景が広がる。2009年当時、観光地としてポツポツ名が売れてきたこともあり、周囲の農家は「農家飯」という食堂を兼ねている場所が多い。そして私にとっては忘れられない言葉「走地鶏」という言葉が躍る。この「走地鶏」とは地鶏を表す言葉ですが、私の脳内はなぜか昔々のサラリーマン時代にタイムスリ~ップ。
 
2000年代初頭の日本企業は、とにかくビッグウェーブに乗り遅れるなとばかりに、どこもかしこも中国・中国・中国。そんなある日、私も加わり中国市場でいかにウケるネーミングをつけるかウダウダ徹夜でのクダラナイ検討会議をしていたとき、中国人アシスタント(非正規)が「走地鶏」を名前に入れることを提案したのです。一同、イヤ~こいつはセンスないぜと馬鹿にしていたが、試しに市場調査で走地鶏を入れたところトップの評価を得る。この結果に自信を持ったのか、コピーライター志望の彼女は、涙ながらに正規雇用するよう私に訴えてきたのでした。ちなみに中国市場に投入した結果は大惨敗、中国人アシスタントは自信を喪失し国に戻ってしまいました。チャンチャン♪
 

いよいよ私がイメージしてきた自力村の光景が見えてきました。これらの楼閣は、向かって左から葉生居盧、雲幻楼、銘石楼となります。前回紹介した書籍『広州・開平と広東省』で奇しくも同じようなアングルの写真が紹介され、「自力村で一番絵になる光景」というキャプションがついています。では、自力村を散策してみましょう。
 

碉楼に登頂、自力村の建築群にただ見惚れる

いよいよ本格的に自力村を散策します。内部公開されている葉生居盧に入り、周囲の絶景を堪能・・・

う~ん、イイね!まず1枚目の写真から解説。向かって左正面に建つ碉楼は、先ほどから一番目立つ雲幻楼で1921年の建造。輸入セメントを用いた鉄筋コンクリート造と、さすがにモダ~ンです。奥に2棟見える碉楼は居安楼と安盧でやはり1920年代の建造。専門家のコメントによれば、安盧あたりでは、周囲の荒くれ者から自分たちを守る防御的なデザインから時代は移り、生活重視の開放的な多層住居に変化してきたとのこと。
 
次に2枚目の写真。向かって右側の碉楼は雲幻楼だが、その奥隣のこれまた高い碉楼は養閑別荘(1925年築)。私のような素人目には雲幻楼とほとんど同じ建物に見えてしまう。しかしさぁ今からほぼ100年前に、ただ田園だけが広がる広東省の片田舎に、これほどの奇抜なビルディングが点在していた・・・毛色は違いますが、あたかもリドリースコットが映画ブレードランナーの劇中で造り上げた東京に似た都市を連想してしまう。
 

せっかくなので、建物内部も紹介。一族の祭壇は「人神共居」の信仰を表すつくりとのこと。
 

自力村をただただうろつく

さほど広いとは言えない村内をひたすら歩き回ります。村内のほぼ中央にある銘石楼からやや外れの養閑別荘まで散歩したのだが、いつしか現実感を失いだし、方向感覚が狂う中、自分が今どこにいるのか皆目わからなくなってくる。日本で例えれば、昭和の高度成長期に建てられた団地(公団住宅)の中をうろついている気分。バウハウスで花開いた近代建築の集合体があの団地群に結実したのだとすると、合理主義・機能主義というものは結局は人間性の喪失につながるのかもしれない。このバウハウスの思想とは真逆の立ち位置にいるはずの開平の望楼群ですが、土客械闘(客家と漢族との度重なる戦闘)から文革の嵐に至る時代を生き抜く中、人間性の喪失ドラマを間近で見てきた証人のはず。いや~自力村の望楼群、オモシロいぜ!


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