途上国を旅すると、社会の格差や貧困といった現実に直面してしまい、何かアクションをとりたいと思う若者が昨今増えてきているように感じられます。日本国内にいると「相対的貧困」で語られる貧困問題/格差問題が、中国やインドを含めた途上国に来ると、それが「絶対的貧困」として眼前に迫ってきます。

「貧困」と一口に言っても、相対的貧困と絶対的貧困の2種類の解釈があり、日本のマスコミでは「相対的貧困」を貧困として扱うことが大半です。この「相対的貧困」とは、読んで字の通り相対的なもので、例えばあるマンションで9割の住人が年収1億円以上、1割が年収5千万円程度だとしたら、この1割の住人が9割の人達より貧しい、つまり相対的に貧困状態にあるという論理です。こんなバカげた理屈で貧困を語る、日本のマスコミって面白いですよね。
 
ちなみに私が考える貧困とは「絶対的貧困」、つまり、食べるものに乏しく栄養状態が劣悪で、身体的障害を抱えた人も多いといった、誰が見ても貧困にあるといった状態です。
マスコミに登場する先生方は、先進国は「相対的貧困」、途上国は「絶対的貧困」で貧困/格差問題を語れと申しますが、異なる定義で「貧困」を同列に語ろうとする矛盾、誰か指摘しましょうよ。

 

ボランティアという名のビジネス

私は大学生の頃、途上国を渡り歩く中で、人は「生まれながらにして運命がおおよそ決まってしまう」という残酷な現実を目の当たりにした時、とりあえずは(出生に縛られず)自由な機会が与えられている自分の境遇が非常に幸運なことに気が付きました。それと同時に、現状を打破する機会が初めから与えられず貧困にあえぐ人たちに同情の念を抱きましたが、それが”憐みの情”になり、何か”施しをしよう”と思うことは傲慢だなとも感じていました。
 
それから約20年の歳月がたち、2011年震災以降、若者の気質がかなり変化したなと感じています。社会全体が優しくなりましたね、少し前までは「自己責任」と言っていたものが、今では「みんなで助け合っていこう」という雰囲気でしょうか。旅先で驚いたのは、自分でお金を払ってボランティアツアーに参加する若者に出会うことが、とくにカンボジアやラオスなどで増えてきたことです。先のみんなが、自分の周囲だけではなく、世界の「貧しい人々」を指すということですよね。こうした若者たち、うん、立派です・・・私には真似できません。
 
ただ、この「ボランティアツアー」、なぜ参加する方々は、わざわざお金を払ってボランティアに参加するのか?本来なら、参加者は賃金を受け取るのが自然です。しかもツアー代金は、従来の観光ツアーより高い価格設定がされていますよね(どこの会社かは申しません)。ツアー主催会社は、気の良い若者が参加するボランティア自体をビジネスにしていること、まぁ広告業界にいた私が批判をしてはいけませんね。
 

自分たちで困難な現実を解決する能力を養う、それが本当の途上国支援では?

途上国の貧困問題を論じるのは、この記事の主題ではありません。ただ、多少論じる都合上、私の意見を述べさせてもらえば、若者がボランティアツアーで学校を建てたり、道をつくること・・・それって、そこの政府がやるべきことであり、日本の若者が無償で(逆にお金を払って)やることではありません。カンボジアもラオスも中国マネーがどんどん入り、日本のODAと併せ巨額の援助マネーが流入しています。政府が手を出さないから、ボランティアで作るという発想は、彼らの自助努力を無視しています。私は先に申しましたが、憐みの感情から施しをしようという発想自体が傲慢なことだと思います。カンボジアでもラオスでも学校はあります、仮に子供たちにとって遠い場所にあっても、勉強しようという意欲が高い子供ならば、歩いて××時間かかっても一所懸命に歩いて通うと思います。
 
それでは、現状で何が問題か・・・「何かを成し遂げたい」「何かになりたい」という目標に対し努力しようとする機会、つまり自助の機会が与えられていないとしたら問題です(例えば、文化大革命期の中国やポルポト政権下のカンボジアなど、子供たちが勉強をしようとする機会すら与えられませんでしたよね)。科学者になりたい、野球選手になりたい、芸能人になりたいetc、何でもイイですが、そうした目標に対し(実現するかどうかは当人の能力次第ですが)、先進国であれば、努力する機会、つまり勉強する機会は平等にあります。ところが、途上国では、その目標を持つことや努力をすることが許されない人たちが確かに多くいます。また、自分たちの置かれた状況がいかに困難な状況にあるか、それをどう解決するか、これは当の国の人々が考え解決をすべきことです。私たちには、そうした人たちを適切に指導する役割が求められていると言えます。
 

ボランティアとしていくのなら、例えば教師として、多様な価値観と夢をもつ大切さを教えることが大切

ここまで読んでいただければお判りだと思いますが、私はボランティアそのものを否定しません。ただ、様々な”大人たち”に食い物にされている現状があったり、当のボランティアを志す方たちが”単なる思い出作り(就活のエピソード作り)”になってしまうのは、いかがなものかなと思っています。
例えば教師として、子供たちに私たちの経験や多様な価値観を伝え、夢を持つことの大切さや、そのためには努力が必要であることを教えることは大変に意義深いものだと思います。教師であれば、ボランティアツアーやそれを斡旋する業者に頼る必要はないのです。あなたが気になった場所で学校を訪問すれば、ほとんどの場合、あなたのために時間を作ってくれます。あなたが現地の言葉を知らなくても、英語が判る先生方に通訳をしてもらえばよいのです。30分や1時間くらいの特別授業を許してくれることは多く、もし断られたら縁がなかったと諦め、別の場所で探せば、きっと良い結果が生じます。
 

表題に戻ります。安易に情に流されるな!

反復になりますが、「かわいそう→何か施しを」という安易な連想は、つまり「かわいそうな野良猫に食料をあげよう」という発想と何ら変わりがありません。誇り高き人々は当然に野良猫などではなく、安易なヒューマニズムで対応する発想がけっして良い結果を生まないことは明らかだと思います。
 
旅とは思考実験の場でもあります。イレギュラーな事態や厳しい現実に直面するたびに、対処の方法を論理的に、理性的に考えなければいけないことが、とくにバックパッカーの旅では多くあります。そうした機会はツアー旅行ではほとんどありませんよね。ツアーならトラブル対応は添乗員の仕事、汚く危険な場所にツアーで行くことはそうないこと・・・それが、バックパッカーたちは自分で全て対応しなければいけません。うん、こんな旅、楽しくてやめられません。


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