世界的観光地として名高いエジプトのピラミッドやインドのタージマハル、そして秦の始皇帝陵で共通する点は何でしょうか?それはズバリ巨大な「墓(陵墓)」、死者を弔い祀るための国家ぐるみで建造された巨大施設です。う~ん、ケッコウ簡単なクエスチョンでした。これらの巨大建造物は日本国内でいえば数多ある寺院、ヨーロッパでいえば教会など、死と密接につながりを持つ宗教施設に例えられ、それぞれの国を代表する観光スポットとして多くのツーリストを集める場となります。

 
つまり何を言いたいか……観光と「死」の関連性はとても高いということを、とりあえずはご納得いただきかった!う~ん、カワイイ〇〇子ちゃんやイケメンの△△君と泊りがけで行く京都旅行って、実は死の世界をのぞき見る辛気臭い”死路への旅”だよと指摘してセセラ笑う、そんなモテないオヤジのひねくれたツブヤキが目的ではアリマセン。当ブログでは過去2回、ダークツーリズム(戦争や災害、公害といった人類の死や悲しみを対象にした観光)をテーマとしたが、この定義から単純に「戦争や災害、公害」を外してしまえば、旅の目的の大半が「死や悲しみを対象にした観光」に当てはまることを、繰り返しですがご納得いただけたでしょうか。
 
原色に彩られた美しい景色や生の躍動が溢れる賑やかなレジャースポットも確かに旅=観光の目的地だとは思いますが、私にとっては圧倒的に「死」を対象とした観光が多いことに今さらながら気づかされてしまった。まぁこれはオヤジだけが圧倒的に暗~く辛気臭い性格だからではなく、世間にいる大半の人たちって本性は暗~いのです。オヤジも含め旅行が大好きな方の大半って「根暗」なんだ~「死」が大好きなんだ~と指摘してみれば、皆さんも心当たりがあるのでは?
 
しかし根っこの本性で「死」を求め巡っているはずの神社仏閣も、日本にある寺院の大半はそれを微妙に覆い隠してしまっている場所だらけ。京都へ行けば、金閣寺のあのピカピカなゴージャスさや、清水寺の高~い舞台から死を連想することは難しいかもしれない。そもそも金閣寺や清水寺に墓所があることを知らない方も多いだろうし、(例え知っていても)檀家でもない者が墓場をうろついていたら不審者扱いをされることは十分に考えられる。
 
しかも、「死」から微妙に切り離された日本の寺院では、死体を目にすることはまずないでしょう。本来、死者を弔い祀るための宗教施設なのに死体を遠ざけタブー視する行為って日本だけに留まらない一般的な価値なのでしょう。
 

前置きはさておき、イタリアのカプチン会修道院って美しいね!

と普段通り長~い前置きを書きましたが、では、死体をタブー視しない社会ってどこにあるのでしょうか?まあヨーロッパにも「カタコンベ」があり、とくにイタリアのパレルモにあるカプチン会修道士墓所やローマの骸骨寺はツーリストが多く訪れる、有名観光スポットですね。

私自身は2007年9月にローマ骸骨寺を訪れこの奇観を鑑賞しましたが、内部の写真撮影は禁止!上記の写真はWikipediaから引用しました。さて、カプチン会修道院ではなぜ骸骨・ミイラを展示しているのかといえば、世俗的な虚栄心や外観へのこだわりがいかに無駄であるかを人々に諭すためとのこと。宗教価値から見世物にされてしまった骸骨たちですが、溜め息が出るほどの美しい造形物に感動した私のセンスってオカシイのかな?いや、そんなことはないはず。なぜなら、私は世間一般の平凡を絵に描いた「Mr.Average」を自認するオヤジ!
 

いよいよグアナファトのミイラ博物館、死を肯定的に捉えるメキシコ人の美的センスが随所に活かされる?

メキシコ中部を代表する観光都市にグアナファトがあります。2007年12月に訪れた私にとって、スペイン植民地時代のコロニアル建築が多数残された中心街(セントロ)の散策は本当に楽しい。ケーブルカーでピピラの丘に登れば・・・言葉を失う美しさ!
 
とまあ、グアナファトの美しさを称える言葉は、この地を訪れた方たちが書いた幾多ものブログ記事を読めば一目瞭然。しかしねぇ、美男美女は一週間も見れば見飽きるという格言がある通り、単に美しいだけなら一週間も滞在すれば飽きてしまいます。しかし、私がこの街を飽きることがなかった理由・・・ミイラ博物館の存在はデカい!
 

グアナファト到着後、真っ先に向かったミイラ博物館はセントロからバスでも行けるが、歩いても30分ほどの道のり。沿道のサボテンなどを見ながら愉快に歩くと前方には場違いなほど大きな建造物が、ミイラ博物館に到着です。遊園地のお化け屋敷に入るような、恐怖心と好奇心が併存する(やや好奇心の方が強い)高揚した気分でいよいよ入場すると・・・
 

無人の館内でいきなり林立するミイラの山に度肝を抜かれる私。仮にお化け屋敷なら一人で入ることはそうそうナイし、お化け役の誰かがいるはずで、自分一人であることはありえない。ところが、この館内の私は死骸の山の中でただ一人取り残された状態。恐怖心は湧きおこらないが、ただただ薄気味悪い中、一人でいることが急に寂しくなる。私の場合、旅は一人が多いが孤独感に打ちひしがれたことは、ほとんどありません。ところが、この生の息吹を全く感じさせないミイラたちの中で、命の鼓動をうつ唯一の存在は私だけ・・・う、孤独じゃ~!
 

と、繰り返すが、孤独の真っ只中だが好奇心だけは満載の私。ショーケースの中にいるミイラたちの顔をしげしげと見るが、その全てが苦悶の表情に映る。まぁ乾燥によりミイラ化するのだから、皮膚は引っ張られ収縮し穏やかな表情に仕上がらないことは理解できます。しかしねぇ、歪んでしまった表情はどれ一つとして美しく映えるものはナイ。ハッキリ言って気味悪く、次第に凝視できなくなる。もういたたまれなくなり、足早に博物館を退出しました。
 
ここでメキシコ人の死生観について一般論を述べると、古代アステカ以来メキシコ人にとって死は新しい生命に生まれ変わるためのステップ、永遠の生の中で幸福に必要なステップとのことです。だからこそ生贄の文化が存在したアステカ時代にも、犠牲による死は高尚な使命として容易に受け入れられたそうです。こうした死生観から察するに、あまたのミイラを眼前に示すことで、死は単なる通過点であり、おびただしい死骸の数々も生きる者と同様の存在(永遠の生の一形態)であることを訴求しようとしたのでしょうか?
 
と、こんな高尚な死生観とグアナファトのミイラを結びつける気は毛頭アリマセン!どう考えても、これらのミイラは博物館の展示物=単なる見世物であり、ここに来場する者は皆がミイラに関心を寄せる好奇心に満ち満ちた人たちなのだよぉ。
 
どうも、ここに私が思う旅/観光の本質があるように思えます。元気いっぱい旅をする人たちって、基本的には生を謳歌する存在。しかしねぇ、そんな旅人が大好きな観光スポットって生の対比物”死”なのですよ。元気な生に満ち満ちた者の好奇心を満たすものって彼らからもっとも縁遠い”死”、だからこそ神社仏閣や教会に行っては礼拝を繰り返す。まぁ、大半の人々にとって”死”に対する好奇心は潜在的なもので、当然のこと表情には出しません。ただねぇ、旅が高じさらに好奇心が強まった(タブーが薄まった)私のような者はミイラ博物館にも足を伸ばすが、グロテスクな展示物の前にノックダウン!結局はグロッキーな状態で館外へと出る結果に終わる。こんな好奇心もホドホドにしないといけません。


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