前回記事のミイラ繋がりで今回も少々特異な”死骸”に関する話し、皆さん風葬の現場って見たことがありますか?えっ風葬ってナニという話しを簡潔に述べると「死体を埋葬せず外気中にさらして自然にかえす」(wikipediaから引用)方法とのこと。一般的に日本では死体を火葬し墓地に埋葬するのですが、風葬が行われている社会では死体をそのまま野外で野ざらしにするのです。すると死骸はミイラから骸骨となり、その後は風化しいつしか自然にかえる・・・この時点で気味悪~いと感じる方、そんなあなたはマダマダ甘い!
 
私の場合(前回も書いたが)世間一般の平凡を絵に描いた「Mr.Average」を自認しているオヤジ、風葬なんて怖くもなんともねぇ!ちなみに1997年にチベットをうろついていた際には鳥葬の現場にも立ち会った経験があり。ただねぇ、死骸が置かれた台からかなり離れた場所での見学だった上に、写真撮影は禁止。今も残っている記憶と言えば、ただギャーギャーけたたましく”吠える”ハゲワシの群衆があまりに異様だったこと。予備知識に持っていた、死骸を人の手でバラバラにする場面やハゲタカが死骸をついばむ場面は確認できず、残念というよりは妙にホッとした気持ちとなりました。
 
一般的に鳥葬はチベット仏教が伝播する社会で行われており、魂の抜け出た遺体を”天へと送り届ける”目的を持った宗教行為ですが、標高が高く乾燥が激しいチベット高原では、火葬や土葬を行うための自然条件が整わない環境こそが鳥葬の行われる大きな理由でしょう。

 
さて風葬に話題を戻すと、なぜ特定の社会では火葬や土葬ではなく風葬なとという(気色悪い)処理を行うのでしょうか?鳥葬と同様に死骸を自然に戻す行為といった自然回帰の思想と見るのがアンサーでしょうか……って、どこかの葬儀屋のキャッチコピーと一緒のフレーズだぜ。確かにトーテムポールなど人間と自然界を一体化して見る思想を古来より持っていた人々も、ここまで意識的に”自然回帰”のために風葬を行っているんだぞって自覚していたのか甚だ疑問。そう、後付けの理由はケッコウケダラケだよ!ちなみに下の写真は2012年に訪れたインドネシア・スラウェシ島のロンダ村。洞窟の中に入ると……!

 
風葬が火葬や土葬と目に見えて異なるもっとも大きな点は、死骸が長期にわたり形を伴って人々のもとに残ること。つまり死骸を残したいから風葬の形をとるのではと仮定してみる。まぁ死骸というよりも故人に対する愛着が風葬の形をとるものと私は推察します。もうしゃべらないし目も開けない私たちから見れば単なる死骸ですが、それを見る人が見れば愛着ある人そのもの、もしかしたら骸骨に至るまで朽ち落ちる姿も、愛着ある人物の在りし日の姿と重ね合わせ許容できるのでしょう。
 

インドネシア・タナトラジャ、ケテケス村の風葬

かなり以前にスラウェシ島タナトラジャにあるケテケス村の訪問記を公開し、風葬の現場写真も掲載しました。興味のある方はそちらも併せご覧いただきたいのですが、その際、あまりに生々しい写真のため公開を控えたものがいくつかあります。その中で今回のテーマに最も合う写真を掲載しますが、気の弱い人はここで閲覧を中断してくださいね。ちなみに前置きで書くと、石の上に置かれたシャレコウベ(頭蓋骨)・・・

『笑ゥせぇるすまん』の主人公・喪黒福造が「ドーン」と言う声が聞こえてきた(え、ご存知ない?)!この光景を目の当たりにし、声にならない叫びをあげてしまった私。そりゃそうでしょ、周囲には誰もいない山腹で、いきなり足下に頭蓋骨が置かれているのですから・・・。ただねぇ、この頭蓋骨を凝視すると不思議と恐ろしいだの気持ち悪いだのといったネガティブな感情は浮かんでこない。それどころか、慈愛の表情が垣間見え愛おしささえ感じられる?
 
鼻孔にタバコが入れられているなどツッコミどころは満載ですが・・・頭蓋骨の前にはタバコの吸い殻がいくつも置かれ、周囲には何本ものビール瓶が置かれている・・・この頭蓋骨の人となりが目に浮かんでくる。きっとタバコもお酒も大好きな、大柄な身体に似合わず性格は優しく……ってこの方とまるで対面しているかの錯覚にとらわれる。え、もしかしたら、この頭蓋骨ってまだ生きているの?よくよく見るとタバコの吸い殻はつい最近のモノ。周囲に誰かいる様子もなく、まさかドクロが街に繰り出しタバコを買っているの?そうだとしたら余程のヘビースモーカーだよ!
 
とまぁ非科学的な考証は避けますが、頭蓋骨となった故人に対する大きな愛情が周囲を包む。そんな空気感に囲まれると、不思議と頭蓋骨とは全く無縁な私までも暖かな気持ちとなる。一見すると恐ろしいドクロ。日本にいたらお化け屋敷や、あるいは警察鑑識課のスタッフでなければ見る機会もない頭蓋骨ですよ。そんなドクロを包む空気が暖かく穏やかなモノなどとは……この地に来るまで想像すらできませんでした。
 
日本にいたら故人への愛情を示そうにも、せいぜい頻繁にお墓参りに行くことくらい。いくら墓石をみつめても、そこには何一つ故人を偲ばせるものはアリマセン。それに対し風葬の現場では、骨やミイラとはなった故人の身体が目の前に置かれている。時間が経てば(葬儀屋の宣伝文句のような)自然と一体化するのでしょうが、それまでの間は形ある人としてマダ生きているかのように、愛情を持って接せられるのでしょう。


<スポンサーリンク>