トゥットゥッでマッタリと過ごす私ですが、宿界隈のカフェに1日中入り浸っているのは暇そのもの、まあ私自身、暇つぶしの達人を自認していますが…。ただステキな景色をじっと見つめていても、それでもつ時間はせいぜい30分でしょう。やはり、感性を揺さぶられる体験をしてこそ、生きている実感=旅の醍醐味が得られるというものです。
 
ただ、この「感性を揺さぶられる体験」というものがクセモノものでして、私自身にとってもケースバイケース、その時々によって異なるのです。ある時には、現地の人とのたわいもない会話から全く異なる価値観を嗅ぎ取ることで魂が揺さぶられたり、ある時には、思いもつかない造形物や意匠を見て魂が揺さぶられる。しかし、もしそれが別の機会、例えば東京で普段滞在している時に同じ経験をしても、何の記憶にも残らないかもしれない。そう、生きている実感なんて言葉に起こすと偉そうですが、いい加減で曖昧な、どうにもつかみどころのない煙のような実体なのです。
 

トゥットゥッから自転車でアンバリータを目指す

トゥットゥッからアンバリータまでは約3km。歩いて行けない距離ではありませんが、せっかくレンタル自転車が無料なので、サイクリング気分で向かうことにします。トゥトゥッは小さな半島部になっておりアンバリータは半島部の付け根に当たります。今回は小さな半島の端から端を、同じ道を通らずに1周する形で周ります。
 

実はこの道、先日トモッへ行った際に通った道と一緒。相も変わらず美しい湖の景色にそろそろ飽きが生じてきた頃、店の方からジャパニーズと聞こえてくる。最近ではチャイニーズやコーリアンと言われることが多いと聞きますが、私の場合ほぼ全てジャパニーズ、たまにブータンやネパールと声がかかります。そう、旅行中の私、実はけっこう濃い顔をしているのです。
 
しかし、こうした国名で呼ばれるのはあまり好きではありません。「おい、アメリカン」「そこの、ブリティッシュ」といきなり呼ばれたら、欧米人はどう感じるのでしょうかねぇ。まず、先頭にエクスキューズミーとつけるのが礼儀でしょ!なんて怒ることはしません。ジャパニーズ・スマイルを浮かべながら、声がかかった方向を見ると、オヤジがニコニコしている。
 
「昨日もここを通ったよね」とオヤジが申す。よく人の顔を覚えているなあ~と呆れながらも少し感銘を受けた私ですが、その後の話しが続かない。オヤジは私のカメラを見て、「俺(オヤジ)の写真を撮ってくれ、撮った写真を送ってくれ」と言う。オヤジからとくに世話を受けたわけではないし、カワイイ女の子じゃないしなぁと不満を感じながらも渋々撮影。後日、オヤジが指定したメールアドレスに写真を送ったが反応は全くなかったです。オヤジ、せめてサンキューくらい書いた返信をしようよ!
 

田園風景の中、自転車を漕ぐのは気持ちイイ~!大きな牛さんの上にはサギがとまっています。
 

そうこうしている内に、アンバリータの街に到着です

アンバリータの街は小さな集落ですが、感じの良い教会がデンと構えている。ファサードなどの外観だけでは伝統宗教との習合があまり感じられません。
 

と思い教会の裏手に回ると・・・バリバリの習合じゃないですか、もう興奮度はマックスです。しかし、墓所って本当に興味深いですね(もう少し知見を深め、墓所評論家になりたい気分)。
 

学校帰りの子供たちと遭遇。たまに訪れる”異人”を見つけたからでしょうか、もう辺りは大騒ぎです!竹下元総理のお孫さんのようなポーズをとる子供や、変顔をぶつける子供・・・元気な子供たちの姿は世界共通なのかな。
 

アンバリータの中央広場はオモシロ巨石が並ぶ「石造りの会議場」

アンバリータの見所は中央広場、バタッ人の伝統家屋が並ぶ中、300年以上前につくられた石造りの会議場や裁判所跡があるとのこと。アンバリータ自体とても小さな集落なので、この中央広場はすぐに見つかりました。
 

中央広場入口でさっそく笑える

子供たちに連れてこられた場所がここです。もう見るからに怪しい石像が2体鎮座している。しかし、なぜ彼らはこれほど頭がデカいのか、そして謎の体育座り…。この時点で期待が高まります。
 

伝統家屋が立ち並ぶ中央広場

狭い入口の門をくぐると、そこには広い広い空間があり、広場を中心に2列の伝統家屋が立ち並んでいました。家屋に入るなど自由に散策できるが、建物内にとくに目を見張ることはなかった、が…。
 

建物に描かれた装飾が素晴らしいですね!トモッでも見たが、トカゲがこの地の神として君臨しているのでしょうか。線型のデザインはおそらく波?、波がぶつかり人の顔型ができています。
 

ここは石の文化、座り心地は悪そうです

広場中央には石のテーブルや椅子が並んでおり、石の人が座っています。ここが会議場だと思われますが、石のイスってお尻が痛くなりそう。
 

そこら中に石像がいる!中には幹に埋もれ木の方を向いてしまっているため、顔が見えない石の人もいる。ところで、ここの石像たちを見て気がついたのですが、大半のものは手を合わせた造形になっている。300年前ですから当然キリスト教が入る以前のものですが、当時のバタッ人では「手を合わせる」祈りが普段行われていたのでしょうか。神仏を信仰する私たちから見ても共感できるスタイルですね。
 
しかし、石の彫刻ってユーモラスな造形になることが多いと思うのは僕だけでしょうか?その理由をわたしなりに推測をしたところ、石は硬いため思い通りに削ることが難しいから・・・という結論を導き出しました(ま、当然の結論)。
 

こちらの木人は最近につくられたものでしょうか。ガイドや職員がいるような場所ではないので、彼が何を表しているのか聞きだすことはできませんでしたが、おそらく裁判にかけられた罪人を表現しているのでしょう。足には木枷がはめられていますね。ただね、造形の好みで言えば、この木人はあまり好きではない。何かつくりが雑に見えてしまい、石人の方が歴史を感じさせる分よほど味があります。石っていいなぁ・・・。


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